3R・低炭素部門合格者ミーティングに参加して


3R・低炭素部門合格者ミーティングに参加して

中野 正隆

所属:コニカミノルタエムジー株式会社
活動地域:東京都

合格者の集いに参加させていただきました。どのような方が受験され、はたまたどのような方との出逢いがあるのか。京都大学・浅利美鈴先生もこられるとのことで胸を膨らませて参加させて頂きました。お楽しみでもあった講演会は、元京都大学総長、国際高等研究所ジオ多様性研究会の尾池和夫所長からでした。講演前には、「環境に関する俳句を一句詠んで自己紹介が欲しい」という流れで始まりました。参加者の皆さんが詠った後、先生からの「詠まれた句のほとんどには肝心の季語がない。これでは川柳ですよね。」の一言に、中学卒業以来まともに俳句に向かい合ったことのない自分にとっては「迂闊だった・・・」と反省でした。俳句は何故季語を求めるのか。尾池先生の講演からは、俳句は日本の四季を表現する文化。季語は日本固有の四季を表現する道具。余談だが、津波を季語として捉えた句はほとんど見られない。津波が襲ってくる真っ只中に俳句を詠むなどという悠長なことはできないからね・・・ だそうです。

四季があるかないかは、世界主要都市の一年間の気温変化グラフから考察できる。四季を有する北緯帯と南緯帯に首都を持つ国はほとんどなく、我が日本くらい。気温が高い月と低い月を有し、日本の年間気温グラフには山と谷がある。降水量も、台風がきたり、梅雨があったり、雪が降ったりと、日本の年間降水量グラフには山と谷がある。太陽という絶えることのないフラットなエネルギーが年間を通して享受できていることを前提として、地球は約23°ほど地軸を傾け、1年間ちょうどで太陽を一周しているからこそ四季がある。海洋潮汐の原因となる潮汐力は、月や太陽などの天体によって地球のまわりの重力場に勾配が生じることで起こる。月の真下の海面では、月に近いため、地球の重心より強い重力場が働いており、より強く月にひきつけられている。逆に、月の反対側の海面では、地球の重心より弱い重力場しか働いておらず、残りの地球のほうがより強く月にひきつけられ、海は取り残される。月という衛星があるから潮の満ち引きがある。季語は、地球環境をありのままに捉えているんだよ。

環境という自然科学を、季語という人文科学の言葉が表現しているのだという解釈には思わず吸い込まれ、釘付けになってしまいました。人文学(俳句の世界)-地質学(地上の文様、気圏、水圏)-天文学(地軸の傾き、太陽の存在、月の存在)の繋がりは、自然科学は自然科学の世界だけで考察を語り切るということに慣れている工学系出身の自分にとってはとても新鮮的なものでした。講演の冒頭になぜ俳句を詠まされたのか? の答えがうっすらと分り始めた頃には、俳句という人文系テーマと地質学という自然科学系テーマが一本の「縦糸」で展開されていくストーリに感動を覚えていました。

感動サプライズは、この見事な「縦糸」と「津波は俳句に詠まれない・・・」だけで終わることが許されない日となりました。日本人ならば忘れられぬ2011年3月11日のゆれを経験することとなります。大きく長いゆれの間は、地震研究第一人者の尾池先生の講義中であったというあまりにも奇遇なタイミング、そして選ばれしその会場が東京電力の「電気の史料館」であったことが忘れ得ぬ「横糸」となってしまいました。

「電気の史料館」には、エジソンが発明したと云われる電球に始まり、日本の電気の発祥、水力発電、火力発電、そして、原子力発電への歴史が現物や模型で展示されています。東京電力株式会社の歴史そのものでもありました。館内見学中は、まさかその翌日からのTVトップニュースをほぼ独り占めし、ゆくゆくはこの史料館に新たな1ページが刻まれる事態になるであろうことを想像することはできませんでした。

低炭素社会に向けて舵を切った日本は、放射性核燃料は危険を伴うと言われながらも、「コントロールさえできれば絶対安全」とのリスクマネージメント理論を盾に原子力発電の開発を推し進めてきました。館内には、新潟県柏崎・狩羽原子力発電所の1/10スケール模型、そしてその安全性を高める仕組みなどをアピールする説明もありました。放射性物質のペレットが封函されたジルコニウム管など、まるで福島第一原子力発電所の現物を見ているかのように実にリアルな模型が展示されていました。また、フランスと並ぶ世界最先端技術を保有している詳細根拠までの説明もありました。

翌日からの原子力安全・保安院(NISA:Nuclear and Industrial Safety Agency)や日本を代表する大学・大学院の先生方々からのTV解説される専門用語を理解することは、この“事前予習“となってしまった見学会によって多くの時間を必要としませんでした。「安全」というコトバを後方へ追いやり、「クリーン」というコトバを前面に出し、「必要悪」とも揶揄されながらも「低炭素」というカサの下で電力エネルギー開発が進められてきました。もはや、国内電力需要の半分以上は原子力発電でまかなっているのが現状です。かつては日本高度経済成長の証とも云われた家庭の「三種の神器」(冷蔵庫、洗濯機、TV)が大量電力消費の端緒となり、今では携帯電話、i-pod、電気自動車などが当たり前となる近代国家日本は、もはや電気なくしては前に進むことができない体質と化しています。ゆれた日の翌週からは都内23区を除く東京地区では夜も計画停電が執行されました。

かつてキャンプで使っていたホワイトガソリンを燃料とするColemanランタンを納戸から引っ張り出しました。シューという燃料供給音を聞きながら、久しぶりにランタン灯の下で読書に耽りました。自宅窓の外を見てみると、周囲は街灯をはじめ、明りという明りは何もかもが消え、普段けたたましい音を立てながら走る電車音もなく、ただただ静寂な街の佇まいでした。ふと夜空を眺め上げてみると、東京の夜とは思えず、普段見えることのできない星が良く見えました。

禅の教えに「吾唯足知」(われ ただ たるを しる)という言葉があります。徳川時代の御三家である水戸藩の徳川光圀公が竜安寺に寄進したと言われる蹲踞(つくばい)が方丈裏方にある茶室蔵六庵の露地にあります。蹲踞とは茶室に入る前に手や口を清めるための手水を張っておく石のことなのですが、この蹲踞にはこの「吾唯足知」の4文字が刻まれています。「満足することを知っている者は貧しくても幸せであり、満足することを知らない者はたとえ金持ちでも不幸ですよ。人間の欲望は際限がありませんし、それを追い求め続けてもきりがありません。どこかで満足することを知らなければ幸せにはなれませんよ」という意味合いがあるそうです。竜安寺・方丈の縁側に腰をおろして石庭の石を眺めた時、「一度に14個しか見ることができないことを不満に思わず満足する心を持ちなさい」という戒めでもあると云われています。

3R低炭素社会検定の発祥地である京都へお出かけになられた際には、分刻み、秒刻み生きている現代社会から少しだけ離れ、この蹲踞を眺めながら、低濃度放射線含有の放水がなされた原子力発電は本当に地球環境に優しいものなのか? 放射線放出の可能性リスクを抱えてまで携帯電話、i-podやDSゲーム機が本当に必要なのか? 幸せな社会を永続的に営むためにはどうしても必要なものなのか? などと、いま一度「吾唯足知」を考えてみられてはどうでしょうか?

最後に、東北地方と関東地方の大震災で直接の被害にあわれた方々におきましては、心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます。自分に出来ることでご支援をさせて頂きたいと思っております。


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