「一円融合」 山﨑 高雄
◎中学生の頃、野球少年だった私に「野球したかったら、この学校へ行ったらどうだ。」と私立高校への進学を勧めてくれたのは父でした。「野球だけではなく、二宮尊徳をよく勉強して来い。」そう言って、丹後の田舎から高校へと送り出してくれました。 当時は、地元の中学校からは地元の公立高校へ行くことが当たり前だったので、親戚のおばちゃんから「遠い学校に行くだって…。」と言われたことを覚えています。 ◎高校2年生になった頃、「牧場始めるぞ。」と寮に電話がありました。父から電話があるのは珍しいことだったのですが、クラブ活動ばかりの自分にとっては「ふ~ん。」という感じでした。 ◎大学を卒業して実家に帰り父の経営する建設会社に入社し、その時初めて隣にある牧場で、給餌を経験しました。その頃は、高校大学と慣れ親しんだ都会の生活が懐かしく、常に「此処には何もあらへんわ。」と不満ばかり言っていたような気がします。 ◎「お前ネパールへ行って来い。小さい時から、ヒマラヤが見たいと言っとっただろう。」また父が突然言い出しました。「文化人類学者の川喜田二郎先生の山岳エコロジーキャンプに参加して来い。」退屈していた私は二つ返事で参加しました。12月のカトマンズは乾燥していて、埃っぽくて、ゴチャゴチャしていて、正直好きになれませんでした。しかしながら、ポカラからアンナプルナのトレッキングロードに入るころにはその雄大な景色と自然に魅了されていました。 ◎我々は、小型の水力発電とか水道施設、ロープラインの敷設等山奥の村にインフラ整備のお手伝いに入ったのですが、日本で梱包した資材が中々届きません。毎日泊まっている小学校の屋根に上がって寝転んでボーとヒマラヤの山々を眺めていました。その時、『此処には、都会にあるものどころか電気も水道もないけど、何でこんなに気持ちええんやろ?』『ここの人達は確かに暮らしは大変やけど、何でこんなに笑顔なんやろ?』こんな素朴な疑問を持ちました。そうすると、まちづくりや山で放牧する畜産を頑張る父の想いが少し理解出来るようになりました。 ◎日本に帰りその年の夏、ネパールでご一緒させていただいた岩手県岩泉の方を訪ねました。そこは放牧に強い日本短角種の故郷です。野草を食べ、山を走り回る牛の姿を見て父はこの牛の導入を決めました。この牛たちが、現在の日本海牧場の放牧地を作ってくれたのです。 ◎小さいですが、日本海を見下ろせる山に芝生が広がり、そこで草を食む牛を見る時間はちょっと良い感じです。近くの旅館からお客さんを連れて行きたいとの話もよくあり、十分に観光資源にもなると思います。入らせてほしいと言われる人達にもっと見ていただければ良いのですが…。(口蹄疫の予防のため制限しています。)また、近年は飼料の研究を進めています。 ◎ずっと以前、ある講演会でこんな話を聞きました。「ヨーロッパは麦を食べるからそれを飼料にします。米大陸はトウモロコシをたくさん食べますから、それを飼料にします。なぜアジアは米がたくさん採れるのに、穀物をたくさん輸入してそれを飼料にしているのでしょうか。」この話が頭の中に残っていました。 ◎『全部は無理でも地元産の餌を作ろう。』協力してくれる食品工場からおからや醤油粕を、自社で足りない飼料米や稲のホールクロップサイレージは近隣の農家から、このように地域の皆さんと協力することで配合飼料は50%、粗飼料は70%を地元産の飼料を使用するまでになりました。牛の堆肥で飼料米や牧草を育て、それを食べた牛が肉になり、そして作物を作る堆肥を供給する。自然はほんとに旨くできています。そして、その過程が懐かしい風景を作り、それが観光資源になる。そこに雇用が生まれ、まちが元気になれば…そんなことを父は描いていたのでしょう。 ◎〈この世で相対するものは、全てがお互いに働きあって一体となっている。それを一つの円と捉えてその中ですべてのものが働き合い、一体となった時に結果が出る。〉これは二宮尊徳の一円融合という考え方です。今、父の会社を継承し建設・生コン・農業と異なる法人で働いていますが、一円融合チームという組織を超えたチームを作り様々な取り組みをしています。やっと、中学生の時言われた「二宮尊徳を勉強して来い。」の意味が分かるようになりました。持続可能な地域・社会・企業を目指して、勉強していきたいと思います。 | ◎ |
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