Vol.19 ~「なぜこんなにモノが増えるのか」~ 面矢 慎介



~「なぜこんなにモノが増えるのか」 面矢 慎介


勤務する大学の地元・彦根で、旧城下町の町家の内部を調査したことがある。伝統的な造りの町家を訪問し、その内部の生活財(町家の中にある家具、道具、設備、その他さまざまなモノの総称)を記録した。調査は町家内部で展開されている生活の記録づくりとして行ったものだが、ここでいつも気になったことがある。それは、どの町家でも中に置かれているモノの数が非常に多いことだ。

客を招き入れられるようにモノをほとんど置かない座敷が、かつての町家にはあったといわれる。しかし現代生活を送る現代の町家では、モノが増えた結果、モノをほとんど置かない正式の座敷を確保することが、規模の大きな町家を除いて、難しくなっていることがわかってきた。確かに、伝統的な町家の住人も現代生活を送る現代人であり、その生活のためには、昔の町家にはなかった家電や情報機器も必要になる。そして町家以外の現代住居と同じく、さまざまな種類の無数のモノが集積して、「生活臭い」濃密な内部景観となっている。

かつての町家、そして町家に限らず日本の住居の内部は、モノの少なさに特徴があったといわれる。明治初期に日本に来て詳細な記録を残した博物学者E.S.モースも、日本の住居内のモノの少なさに言及している。家庭内のモノが少ないのは当時の生産力からみても頷ける。それからの百数十年の間に、モノは激増し、いまや日本中の家の中に、家によっては「足の踏み場もないくらい」に、モノが溢れている。この無数のモノに囲まれた現代の暮らしのあり方を、いったいどう考えたら良いのだろうか。

英語に”right tools for the right job” という言い回しがある。正しい仕事には正しい道具を(用意すべき)、といった意味の言葉だ。しかし、人間のなす行為は無数にあり、そのそれぞれに「正しい」つまり適切な道具を揃えてゆくと、その数は膨大に膨れ上がってしまう。そうならないためにはどこかで諦めて、だいたい似たような機能を果たすモノで代用するか、汎用性のあるモノを使い回すか、あるいは道具なしで何とか済ませることになる。

以上はごく合理的な人間行動を想定した場合だが、昨今の日本の現実をふりかえってみると、事はそれほど単純ではない。まず、モノは以前に増して非常に容易に手に入るようになった。思いつくほどのものは何でも、どこかで売っており、金を出せばほとんどのモノが、その質の程度はさまざまあるとしても、買えるのである。例えば100円ショップ、例えばファスト・ファッション。今の日本は、安価で買えるものが身近に大量に溢れている特異な社会といってよいだろう。なくてもよいが有ったら便利なモノ、魅力的で手に入れたいモノ、その他の無数のモノが買われるのを待っている。ついでにいえばデザインという行為は、現代ではこれらの商品の魅力化に多いに貢献している。加えて、これら商品となったモノを魅力化する情報は巷にあふれている。誰がそれに抗えるだろうか。こうして、買われたモノは食べ物や使い捨てのモノを除き、どんどん生活空間の中に溜まっていく。

家の中のモノは、生活者が必要のために買ったものとは限らない。もらうモノもある。プレゼント、引き出物、記念品、賞品、おまけの類。親から引き継いだモノ、他界した親族の誰かのモノ、独立した子供が残していったモノ、、、 。(置き場に困った)知り合いや親戚のモノを預かり、そのまま留め置かれていることさえある。これら増殖するモノへの対処として、近年の日本ではモノの捨て方の指南が流行している。モノを捨てることによって精神的な刷新が図れるとうたわれている。その主張にはやや異論がある。モノはそれを使って暮らしてきた人の人生の記憶媒体でもあり、安易に捨てることが果たして良いことなのか。その持ち主の人生観に関わることではないか。モノの捨て方以上に問題にすべきは、なぜそんなに多くのモノを手に入れてしまったのか、であろう。モノの少ない暮らしを実現するための大きな構想/ビジョンが打ち立てられなくては、モノが減っていくことはないだろう。

私はここでこれらのモノを提供してきた産業界や行き過ぎた商業主義を批判したいのではない。多数のモノを手に入れ、溜め込んできた生活者もまたモノの増殖に責任がある。多数のモノを作り、売りたい産業界と、多数のモノで自らの欲望を満足させたい生活者とが手をたずさえて、いわば共犯関係によってモノは増えてきたのだ。

ここで、再びright tools for the right jobの語について考えてみたい。適切な行為のために適切な道具を用意する。これは道具/モノのあり方のひとつの理想だろう。しかしそれをすべての生活行為に広げていくと(もちろん、趣味や娯楽も、カワイイ小物や服を集めることも現代人の生活の一部だとして)、無数の道具で我々の住居/生活空間は溢れかえり、結果的に資源・エネルギーを浪費することになる。より良い道具を使いたいという理想が、そのままでは行き詰まってしまうという難題を今の私たちの文明は抱えている。

では、最低限の、数少ないモノで暮らす。そんな禁欲、そんな不便さに、モノ溢れの時代に育ってきた私たちは耐えられるだろうか。持ちモノの数量が制限されるような社会を想像したくはない。何か非常に大きな発想の転換が、いま待たれている。



omoyashinsuke

【プロフィール】
面矢 慎介(おもや しんすけ)

【略歴】
1979年:千葉大学大学院 工業意匠学専攻修了
1979~1995年
GKインダストリアルデザイン研究所
およびGK道具学研究所
1990年英国ロイヤルカレッジオブアート文化史学科修了

現職:滋賀県立大学人間文化学部教授
専門:道具学、考現学、デザイン史




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